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機械の中に次のような文があったので紹介します。
書いた人は、バイカ工業(北九州市戸畑区) 社長・吉村利子さん




吉村式 ポン菓子機のご案内

ポン菓子機とは
地方によって呼び名が色々と違います。
 北海道では「どん」関東では「バクダン」中京では「米はぜ」その他パン菓子、ポンポ菓子、パットライス等です。名前のとおり大きな音がして多種の穀物が大きく膨張する機械がポン菓子機です。
 特に戦前、戦中、戦後と多くの人々の思い出の中に、又、現在も米の消費拡大の目的の中で自然食を中心とした食生活の中で華々しく活躍しています。
 又、一方、コミュニケーションの場として生活の中に行き続けています。たとえ、時代はどのように変わりましても、人々と共に世に多くの穀物のあります限り、ポン菓子機は私たちにとりまして、大切な機械であることを信じます。

吉村式ポン菓子機の誕生と特色
 戦時中、一番人々にとって辛く苦しかったのは食糧難でした。雑穀から大豆かす、澱粉までが主食として配給されましたが、みんなそれぞれに調理法に頭を痛めました。勿論、子供達のおやつは皆無と言っても決して過言ではありません。

 考案者吉村は当時小学校の先生をしていて、空腹、消化不良、下痢、皮膚病、に泣く子供達を抱いて考えつづけました。自分の幼い頃、まるで大砲のような大きな音がして、お米が化けもののように大きく大きく膨らんで、飛び出した魔法の機械のことを思い出しました。「あの機械だ。あの機械さえあれば、どんな穀物だって良く消化し、美味しく食べられるに違いない」
 「そうだ、自分の手であの機械を造って子供達に腹いっぱい食べさせれやるんだ」そう決心し思い続け考え続けました。しかしそれは、幼い子供の日の思い出の中の一こまに過ぎません。
 形を書き、構造を考え、性能を生み出すことにあらゆる努力と苦労を重ねました。
 時に幸あり、電気溶接というすばらしい新技術に巡り会えたのです。今まではガス溶接しかなかったのです。

 ここに軽くて強い総鉄製のポン菓子機の誕生を見るにいたったのです。当時、鉄はすべて戦争に動員され半紙大の鉄板一枚を求めることすら大困難の時代でした。当時、北九州の戸畑は鉄の街、職人の街でした。彼等は鉄を鋳ることも火造ることも削ることもつなぐことも非常に優秀な技術を持っていました。日本三大工業地帯の中でも誇り高い街でした。
 その街の片隅の小さな工場で一号機が産声を上げ、大きな爆発音と共にテストは成功しました。それから60年…。今もこの機械には時世一代、人々の情熱と歴史が脈々と流れています。

 今日も又、大きな音と香ばしい香り、人々の叫びと笑いの中で機械は幸せいっぱいに働いています。昔話に花が咲きますと、そばの子供達も喜びながら仲間に参加していよいよ楽しい雰囲気は子供達にもうれしい思い出となる事でしょう。

米の消費と和やかな人々の集い
 都道府県市町村、そのあちらこちらで米が10〜13倍に膨れるポン菓子加工風景に叫び喜び笑いがあります。水が蒸気に変わり、蒸気圧と言う力で自然が持つおいしさを残して大きく香ばしく膨れます。玄米、米、麦、豆、きび等が変身します。大人達は遠く幼い日々のふる里を偲び、今日生きることの尊さを思うことでしょう。子らはその不思議さに驚き目を輝かせます。やがて成長してふる里を恋いうる時、清らかな懐かしい思い出として沸々と蘇ることでしょう。

ポン菓子加工業として
 市町村のあちらこちらで人々が持ち寄った米、麦、豆、もち、とうもろこし等を大きく膨らませておいしく味付けして加工賃を得ます。材料は客が持参しますので仕入れの心配もなく許可も一切いりません。この仕事は昔から縄張りがありません。四季を通じて出来ますので、本業としても立派に成り立っています。
 ただ一つ、商売繁盛のコツは心をこめておいしいものを作ることです。「おいしい」おもわず飛び出す客の声こそ加工業者としての生きがいです。1回の加工賃は加工時間平均5〜8分位で平均1,000円くらいです。

機械についてのご説明
 機械の寿命は半永久的ですが、使用する人の取り扱いで傷みも激しくなります。大切に可愛がっていただきたいと思います。最初、一つ一つ手にとってご指導いたしますので、どなた様でもご使用になれます。故障も殆どありません。